はじめまして。明石あおいです。
東京でのサラリーマン生活にピリオドを打ち、2010年5月に富山へUターンしました。移住後約1年は地元の民間企業で働きながら、県内の状況やニーズをゆる〜くリサーチし、2年目に覚悟を決め、「まちづくりとデザインの会社」を起業しました。
たった一人で始めたのは「せけん(世間)デザイン」という活動です。
知名度ゼロ、お客様ゼロ、実績もほぼゼロ。何ができる会社か自分自身でも探りながらの出発でした。いきなりではありますが、これまでの8年、をちょっと振り返ってみようと思います。
生まれたばかりのよちよち会社に応援・協力してくださったのは、魅力的な友人たちや旧来の知人たちでした。初年度の売り上げはたったの180万円。自分の給料はゼロでした。でも、この時にいただいたお仕事がきっかけで、次年度以降、お声がけいただくところが増えました。
2年目には、少しずつ少しずつ、やらせていただけるお仕事の範囲も広がってきましたが、まだまだ経費を払うのもドキドキの毎日でした。5万・10万の印刷代を捻出するのさえ、大変だったのを覚えています。
3年目には、初めて社員を雇用し、総勢3名の会社になりました。お給料を渡す側になって初めて「お金」の意味や「稼ぐ」意味がわかった気がしました。
4年目には、初の新卒採用を含む4名に。デザイナーが増えたことで、アウトプットが倍以上になりましたが、指導に時間を取られることが多く、ほとんど自分の仕事に集中できた記憶がありません。
5年目には、お金をかけて求人広告も出して、6人となりました。このあたりから、少しずつ会社っぽくなってきたなーと思います。
6年目に町家オフィスを作り、富山市から射水市へと本拠地を移動。もともと大好きな内川に移動してからは、気の流れがよくなったのか、さらにやりがいのあるお仕事をさせていただくことが増えてきました。そして8年目の今年は、さらに新卒スタッフを加えて8名となった弊社。かけがえのない仲間たちとの出会いがあったからこそ、お仕事の範囲が少しずつ拡がり、起業当初には考えもしなかった頼もしいチームに囲まれているなーと思います。本当にありがたい話です。
…という具合にさらりと振り返ってみましたが、ここまで来るのには、戸惑いと悩みと決断と辛抱の連続でした。企業が成長していく過程を、シード、アーリー、ミドル、レイターという4つのステージに分けて考える方法がありますが、今の弊社はアーリーステージ。でも、全然まだまだ。毎日が自転車操業なのは変わりません(笑)。
ある程度事業が軌道に乗ってくるミドルステージにはまだもう一歩という感じです。
経営者としても、まだまだ未熟で中途半端な立場ではありますが、これから地方で起業したり働いたりする女性たち、いま地方でがんばっている人々に向けて、何かのお役に立てばと思い、つらつらと書かせていただきたいと思います。
京都に生まれ、父がUターンするのを機に、5歳で富山に引っ越してきましたが、高校生になってからは毎日のように「こんな田舎の富山からは絶対に出ていくぞ!」と自分に言い聞かせていました。
本当は、服飾関係の専門学校に行きたかったのですが「私にもわかる大学に行くなら費用を出してやる」という父の一言で、東京に行きたいという気持ちだけでEとかFとか判定の難関大学に挑戦することになりました。独自の勉強法が奏功したのか、晴れて進学。東京での生活が始まりました。
大学の話は長くなるので端折りますが、卒業後は地域振興のシンクタンクへ就職しました。
この会社は、グループで約30名の会社で、当時の業界ではけっこう有名だった創業者のもと、日本各地の地方の振興に関する調査・コンサルティング業務のほか、自主事業として店舗経営や、関連のNPOでは各種団体の事務局などもしている「まちづくり」の会社でした。
この会社で約12年研究員として働くとともに、NPOの役員としても活動してきました。各地にプロジェクトを抱えていたので、北海道から鹿児島まで、週の半分は地方出張という生活でした。
1日にバスが2本しか来ないようなところや、高速船でしか行けない離島などにも赴くと、「田舎で何もない」と思っていた富山よりもずっと田舎で不便な地域にも、キラキラ、生き生きと暮らしている方がいることがわかりました。それも、経営者、行政マン、地域の人々…不満を言う前に、自分たちでこの地域を何とかしよう!と思っている方々のパワーに触れて、「日本の地方って面白いじゃないか!」と気づきました。
こういう経験をさせてもらったことで、その土地の人々の気質やライフスタイルなどにも考慮しながら、その土地の人々が生き生きと働ける場を作れたらいいなーと、ほんのりと夢想してきました。
富山にUターンし、1年間は県の事業の臨時スタッフとして働いた後、仕事の受注も将来の見込みもないままに、とにかく会社の設立・届け出をして、2011年6月に株式会社としてスタートしました。
ですから、サービスや金額の設定などは2の次3の次。まずは一人会社=自営業者としてのスタートです。今まではお給料をもらう立場でしたし、自分の強み(や弱み)を整理して自分の生み出す仕事の価値もわからぬまま活動を開始してしまいました。おかげで随分いろいろな壁にぶちあたりました。
「デザイン料」「コンサルティング料」というカタチのない価値は、なかなか理解されないところがあります。特に、予算ありきで手に取れる成果物を好む自治体や補助金がらみのお仕事は、「印刷料に含めてほしい」「やっぱり削ってほしい」というご要望もかなりありました。起業当初は、できることを知っていただくために、とにかくどんなお仕事でも受けたので、印刷代や材料費だけで全く儲けにならないものもたくさんありました。
儲けがないのに不当に値切ってくる方や、十分なコミュニケーションのないままに「プロなら作れるだろ?」と様々な要望をしてくる方もいました。こういうタイプの人は、都会で仕事をしていると会うのは稀です。様々なお仕事や人付き合いで鍛えられ、絶妙な役割や距離感を会得している方が多いからではないかと思います。限られた範囲や業界のお仕事で、驚くほど外注リテラシーの低い人に出会うこともあるのが、地方だったりします。
でも、いちばん扱いに困ったのは、実は、仲間や友人でした。お友達経由の「ちょっといい感じでデザインしてほしい」とか「ここにイラスト描いてほしい」とかいう値段の決めにくい依頼は、嬉しいけれど辛いもの。こういう方々に、ちゃんと請求書を出すのは、当初かなり勇気がいりました。
実績ゼロの状態でも、最初から料金設定をし、できるだけ例外処理はしない方がいいということが、今になったら分かります。そのために、この地域において自分ができること&できないこと、強み&弱みなどを整理しておく必要があったなと思います。そうすれば、最初からもっと強気で行けたな、と。…今になって思うことですが…。
愚痴のように書き散らかしてきましたが、ローカルで起業する良さは、何と言っても「余白」が多いということに尽きます。
都会では、「これをやろう!」と思い立っても、何十人、何百人もの人が既にやっていることだったりしますが、地方には数えるほどしかいなかったり、そもそも誰もやっていなかったりします。
Uターン直後、あるプロジェクトを思いつき、企画の段階でいろいろ調べてみたら、“誰もやっていない空いている場所”があることが判明し、悩んだことがあります。「空いている理由は何だろう?」「富山でやると失敗するのかな?」と、少し気味が悪かったのですが、本当に空いているし、ぼちぼちと始めてみると、「これを待っていたよ!」と言ってくれる人たちが結構出てきました。…つまり、本当に「誰もやっていなかっただけ」だったのです。
そして、それをちゃんと続けていけば、いつの間にか“その道のパイオニア的存在”になっていたりします。
あとは、シンプルな組み合わせのバリエーションでも、十分オリジナリティを出せてしまうという利点もあります。デザイン会社は富山にもたくさんありますが、「まちづくりとデザインの会社」はほとんどありませんでした。何かひとつでは難しいかもしれませんが、今までのスキルや経験を掛け合わせれば、オリジナリティになり、強みになるのだと実感しています。
また、「足を引っ張るものが少ない」というのも利点のひとつです。
主に事務所代などの初期投資の少なさ、低リスク低リターンの仕事からコツコツ積み上げていける確かさのようなものがあります。生き馬の目を抜くようなギラギラしたビジネスではないけれど、牧歌的な支え合いの中でお互いの役に立てているという存在肯定の安心感が、ベースに流れているように感じます。
さらに、「すごい速さで注目される」というのも、メリットだと思います。
小さなイベントや企画でも、今まで富山になかったことや新しいことなどは、地元の新聞やテレビ局が好意的に取り上げてくれることが少なくありません。見切り発車で進めたものが、早々に注目され、親戚や友人のように応援・協力してくださる方が先に出て来て、後で中身が充実してくるということもあります。
以上、地方で起業するのが結構オススメだよということを、つらつらと書いて参りました。今、都会で働いている女性(特に富山出身の女性)に、起業という方法も、人生の選択肢のひとつに加えていただけたら、うれしい限りです。